「やばいリンガル」 Waffle

 朝起きると米・英語圏では、waffleが朝食のメニューに入っている可能性が高いが、オージー英語では朝からwaffleすると嫌われるかもしれない。何でだろう?

In other English-speaking countries, there’s a high likelihood waffles may appear on a breakfast menu, but if you began waffling from first thing in the morning in Strine, Australian English, you might find yourself becoming unpopular fairly quickly. Keep reading to find out why.

Waffle
日本語の意味
Meaning in Japanese
ワッフル
Waffuru
米・英語の意味
Meaning in U.S./British English
Waffle, a sweet pastry often eaten at breakfast
だけどオージー英語では、、、
But the meaning in Strine is....

煮え切らない無駄言をしゃべる
Long-winded, boring, pointless speech

Cop A Gander At These Rippers Too...

  • カンガルー変装で大脱走

    英国帝国の植民地時代オーストラリア(1788-1901)はイギリスの流刑植民地だった。シドニーで初めて囚人を拘束したが、その後最も管理しづらい囚人たちをタスマニア島にあるポート・アーサーというところに禁固した。  当時、イギリス人が定住したところ全部が軍法下で暮らして、食糧不足などがあり決して楽な生活ではなかったが、ポート・アーサーでの状況がさらに厳しく囚人たちの間恐怖的な存在となったという。  ポート・アーサーが流刑植民地となった理由の一つがその孤立している立地だ。当時のタスマニア島ではホバートという町(今、タスマニア州の首都)が約60キロぐらい離れてあったが、他は何もなかった。タスマニア島そのものもオーストラリア本土からも遠く離れている。囚人が逃げようとしても逃げるところがなかった。  それでも、脱走しそうな人が現れた。そして、逃げ方も半端じゃなかった!  1842年のことだった。  ジョージ・ビリー・ハントという囚人はカンガルーに変装してポート・アーサーから逃亡しようとした。カンガルーの動きを真似して海を近づいた。うまくいきそうだった。   しかし、その時、お腹をすかせた看守が、夕食にカンガルーの肉を食べようとして彼を撃った。  その時変装を脱ぎ捨てたハントは、追手に囲まれて捕らえられた。  幸いに無事に拘束され、当然食べられなかった(しかし、ポート・アーサーが舞台となった共食い事件が実際に起きたので冗談半分でしかそのことをいえない)。が、逃亡未遂したため、150回の鞭打ちの刑に処されました。 ちなみに、今でもポート・アーサーでは当時の建物などが残り、タスマニア島の最も有名な観光地となっている。

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    豪出身元祖「クール・ジャパン」支持者が訃報報道を否定

     親日家として知られているオーストラリア出身でイギリスで活躍したクライブ・ジェームズ氏というユーモアリストが末期がん報道を25日付否定している。  ジェームズ氏は1939年オーストラリア、シドニーで生まれて1960年代の初め頃からイギリスでライター、ブロードキャスターなどさまざまな行動で大活躍した。  しかし、最も有名なところが恐らく1970年代から1990年代の頭頃の間イギリスを始め主に英国連邦内の英語圏日本のことを紹介したこと。日本にとって彼の重要な役割を理解できるため、当時の事情を振り返る必要がある。当時、日本の絶好景気か閉鎖市場や輸出黒字などを理由とした貿易摩擦時代の真最中だったので、日本及び日本人に対して「日本人が働き蜂」や「軍力で出来なかった経済力で世界を支配しようとしている」などのような反日的な批判や感情が強まるつつあったが、それに対してジェームズ氏が自身のテレビ番組で日本のテレビ番組を使って日本人を友好的に提供することにした。「ザ・ガマン」などの映像を使用して「日本人を小馬鹿にしている」という批判もあったが、「人間味」を感じさせる場面を披露し、世論の日本・日本人に対しての気持ちを肯定的な方向に導くように大きく貢献したと言える。ジェームズ氏が英語圏の元祖「クール・ジャパン」支持者と言っても過言ではない。  で、同氏が数年前から白血病となり、もう72歳となっているので、後は長くないということが思われている。そして、6月21日付の英デイリー・ミラー紙では「もうがんに負けた」と末期がん宣言のようなインタービュー記事が報道されて、英・豪を中心に心の準備が始まった。  しかし、25日付のオーストラリア各紙では自身筆の記事では「死ぬ寸前報道」を強く否認し、「まだ、まだ戦うぞ」と宣言した。  ジェームズ氏が自称「日本語喋る」上に日本に対して愛情を感じさせる文書などによって「親日家」及び「日本通」なので、もっと活躍を続けてほしい人が多いかもしれない。

  • Acrobatic Start to Relations まさにアクロバティックに始まった日豪関係

    知られざる日豪関係のルーツ What You Didn’t Know about Australia-Japan Relations 日豪関係のルーツは、まさにアクロバティックに始まった。1867年に日本の曲芸団がオーストラリアを訪問した数年後(具体的な日付は不明。1871年という説もあれば、1874年という説もある)、Sakuragawa Rikinosukeという曲芸師がオーストラリア人女性と結婚して、豪州に移住した日本人として初めて記録された。 Japan-Australia relations started off by swinging into action – literally. First contact came in 1867 when a Japanese acrobatic troupe visited Down Under in 1867. A few years later (the exact date is unknown – some say 1871, others 1874), Rikinosuke Sakuragawa, an acrobat touring Melbourne with another troupe, married an Australian woman and they settled in Queensland, where their descendants remain today.