豪に居れば、豪に「詩違え」:どんなオージーでも知っているポエムが作り変えられる

Poet Dorothea Mackellar, author of “My Country”
 日本人誰でもが宮沢賢治氏氏の「雨にも負けず」を学ぶように、オーストラリアの子供たちがドロシア・マッケラー氏の「マイ・カントリー」(「我が国」)を学校で必ず勉強する。
 マッケラー氏が19歳で1904年にイギリスでホームシックとなった時に作詩し、以降母国のオーストラリアで広く知られるようになる。
 今でも一般にハイ・カルチャーが決して浸透していると言い難いオーストラリアでは少なくともこの詩ぐらいなら誰でも知っていると言っていいと思う。
 そして、あのウィーン少年合唱団が来月オーストラリアへツアーする予定であり、それを先駆けて「マイ・カントリー」を作曲し歌うことになっている。
「マイ・カントリー」(皆が知っている所。実際に全詩がもっと長い!)と日本語訳が以下の通り。

My Country 「我が国」

I love a sunburned country,
A land of sweeping plains,
Of rugged mountain ranges,
Of droughts and flooding rains.
I love her far horizons,
I love her jeweled sea,
Her beauty and her terror -- The wide brown land for me.
私は愛す、この太陽の照りつける国を、
広大な平原、岩だらけの山の連なり、
干ばつ、そして土砂降りを。
私は愛す、遥かな水平線、
宝石の輝きにも似た海を、
その美しさ、その脅威ー
広漠たる赤褐色の我が国を。

ウィーン少年合唱団「マイ・カントリー」(「我が国」)

Vienna Boys Choir loves a sunburnt country

Cop A Gander At These Rippers Too...

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    オージー英語が革命を逃した時代

     1970年代前半オーストラリアは、画期的な時代だった。社会的な変化が多い時代であって今のオーストラリアに大きな影響与えている時期でもあった。その激しく変わる時代の中であまり知られていない変化のひとつはあのストライン、要するにオージー英語だった。  1972年に革新派のゴフ・ホイットラム氏を首相としてオーストラリア労働党が23年ぶり政権となった。独立した1901年以降ほとんど保守派の政権下だったオーストラリアは、ようやく1960年代のカウンターカルチャー運動などによって大きく変化を起こした欧米に比べて時代遅れて数多く進歩的な動きが始まった。ホイットラム氏が首相となって数か月以内に先住民族の権利を認め、1960年代半ばから実質的に実施しなかった白豪主義を正式に廃止し、ベトナム戦争の参戦撤去、18歳に投票権を与え、徴兵制を廃止したなど、豪社会の芯まで変えた。移民政策が白人移民を中心よりアジアをはじめ有色人種を積極的に受け入れるようになったなど、ようやくオーストラリアがイギリスを中心にヨーロッパの前哨基地としてでなく、アジア・太平洋地域の一国である認識を持つようになりつつあった。  しかし、あまり知られていない変革も起こそうとした。それはSR1の導入だった。SR1はSpelling Reform 1(綴り変革1)の省略だ。話す言葉に影響がなかったが英語の綴りが話す言葉に近づけるようにした。英語を勉強したことがある誰でも分かるように身に付けるには最も難しいところのひとつが英語の綴りのことだ。スペルの例外が数えきれないほど多くあり、矛盾さが目立ち特に第二言語として学ぼうとしている人たちにとって苦しませることが多数ある。SR1は総合的に英語のスペルをもっと合理的にしようとした。必要ないEを廃止するやf音をするphをなくすなどしようとした。他のスペル変革の例はこのようだった。 are→ar, were→wer, give→giv, have→hav, large→larg, some→som, because→becaus, gauze→gauz, leave→leav, freeze→freez, valley→vally, achieve→achiev, examine→examin, practise→practis, opposite→opposit, involve→involv, serve→serv, heart→hart.  雄弁で評価されているホイットラム氏は英語の変革にも熱心だったので、SR1の密な支持者でもあった。そこでホイットラム政権が豪政府の正式用語としてSR1を導入した。たとえば、当時の健康省がHealth MinistryからHelth Ministryとなった。  このように英語のスペルがだいぶ分かりやすくなった。同時メートル法の導入をして大成功に終わった。だが、SR1が正式に採決したとは言え、実質的に使うところがほとんどなかった。役員たちが使ったとは言え一般庶民に馴染みがなく従来のスペルと使い続けた。  ホイットラム政権がスキャンダル連発で1975年に連邦総督ジョン・カー氏によってホイットラム首相を罷免した。同時に政府の正式用語としてSR1使用が終了となった。同年豪州全国教職員組合がSR1を公式語として採決したが一般社会同様実質的に従来通りのスペルを使い続くことしかなく徐々にSR1支持者の数が自然不滅するようになって1980年代まで趣味程度で続ける人しかいなかった。  今でもSR1を支持する人々や団体が存在するがあくまでも超少数派である。ちょっと残念かもしれない。どう見ても英語が母国語じゃない人たちにとって文書が極めて分かりやすくなるがhttp://en.wikipedia.org/wiki/SR1SR1のような変革を現時点豪ホイットラム政権のような公的な認可はまずなく、社会的な支持がさらに現れそうもない。 当時革新派だった豪労働党がキャンペーンに使用された曲の波紋が広がったが英語綴り変革が失敗に終わった SR1の詩 Draw a breth for progress, Tred abrest ahed. Fight agenst old spelling, Better “red” than “read”. Spred the words at brekfast, Mesure them in…

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    Possibly my first connection with Japan was waking at an ungodly hour (lifelong habit) and turning on the telly to watch Shintaro the samurai and his sidekick, Tombei the Mist, take on the evil Koga ninja and other assorted nasties threatening the Shogunate. I was watching The Samurai, a program where Shintaro, played by Koichi…

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    Shear Fluke! A Rare Aussie Cultural Hit in Japan

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    メン・アト・ワークのメンバーが死亡

    1980年代全世界で大成功したバンドであるMen at Workは、一定の年齢のほとんどのオージーにとって特別な存在である。考えRoo自身も例外ではない。  メン・アト・ワークの現役時代がそれほど長くなかったが、1982年にオーストラリアで発売した「Down Under」が米国をはじめ世界中に大ヒットした。そして、1983年オーストラリアIIがアメリカズ・カップのヨットレースを優勝し、アメリカの132年間同カップの統治にピリオドを打った時に同曲がオーストラリアでまるで国歌のような存在となり、一気にメン・アト・ワークが国民的な英雄のような存在となった。(優勝した当時のオーストラリア雰囲気を説明すると昨年震災直後なでしこジャパンがサッカー女子ワールド・カップを優勝して全国がまるで一つとなって祝った感じが近い。当時豪首相だったボブ・ホーク氏が優勝に対した「今日、ボスが休ませてくれないとくそたれだ」と発言したのは有名な話。当時、高校生だった考えRooはヨットに全く興味ないにもかかわらず学校行く前に優勝した瞬間をラジオで聞き大喜びで祝った覚えがある。)  しかし、そのメン・アト・ワーク、いやオーストラリア全体にに対して大きなショックが起きたのは今年4月19日のことだった。「Down Under」の最も印象的な所だあろうフルートの部分のフルートを吹いたパーフォーマーであるグレッグ・ハム氏が突然死したとのことだ。現時点、心因が不明だが、アルコール関係だとうわさされている。  実は、メン・アト・ワークの黄金時代後ハム氏が色々苦労したようだ。1980年代で稼いだがその後それほど大きな実績がなく印税で暮らして時々演奏などをしたハム氏。しかし、「Down Under」がでて25年目いきなり「フルートの部分がオーストラリアの児童歌の盗作だ!」と主張するレコード会社が現れ、メン・アト・ワークを訴えた。客観的に見ればどうも似てないにもかかわらず2010年の判決ではメン・アト・ワークが敗訴し、ハム氏にとって金銭的及び評判にとっても大きな打撃を与えたそうだ。二人の父となったハム氏は、印税を失い弁護費を背負うようになったので「家を売れないと金がない」ということをいい、多くの知り合いが判決後のハム氏が「欝」「苦しいだ」という。  ちなみに、「Down Under」のおかげでchunderというストライン(オージー英語)が一時期世界中に有名な言葉となった。  ハム氏は、19日付自宅に訪ねた友人が倒れている姿で見つけたが既に死亡だった。58歳だった。 関連記事 Bugger me, Bob! 豪州元首相の豪俗語が外交的な事件になりかけた頃 豪キャブラリー: Chunder

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    豪出身元祖「クール・ジャパン」支持者が訃報報道を否定

     親日家として知られているオーストラリア出身でイギリスで活躍したクライブ・ジェームズ氏というユーモアリストが末期がん報道を25日付否定している。  ジェームズ氏は1939年オーストラリア、シドニーで生まれて1960年代の初め頃からイギリスでライター、ブロードキャスターなどさまざまな行動で大活躍した。  しかし、最も有名なところが恐らく1970年代から1990年代の頭頃の間イギリスを始め主に英国連邦内の英語圏日本のことを紹介したこと。日本にとって彼の重要な役割を理解できるため、当時の事情を振り返る必要がある。当時、日本の絶好景気か閉鎖市場や輸出黒字などを理由とした貿易摩擦時代の真最中だったので、日本及び日本人に対して「日本人が働き蜂」や「軍力で出来なかった経済力で世界を支配しようとしている」などのような反日的な批判や感情が強まるつつあったが、それに対してジェームズ氏が自身のテレビ番組で日本のテレビ番組を使って日本人を友好的に提供することにした。「ザ・ガマン」などの映像を使用して「日本人を小馬鹿にしている」という批判もあったが、「人間味」を感じさせる場面を披露し、世論の日本・日本人に対しての気持ちを肯定的な方向に導くように大きく貢献したと言える。ジェームズ氏が英語圏の元祖「クール・ジャパン」支持者と言っても過言ではない。  で、同氏が数年前から白血病となり、もう72歳となっているので、後は長くないということが思われている。そして、6月21日付の英デイリー・ミラー紙では「もうがんに負けた」と末期がん宣言のようなインタービュー記事が報道されて、英・豪を中心に心の準備が始まった。  しかし、25日付のオーストラリア各紙では自身筆の記事では「死ぬ寸前報道」を強く否認し、「まだ、まだ戦うぞ」と宣言した。  ジェームズ氏が自称「日本語喋る」上に日本に対して愛情を感じさせる文書などによって「親日家」及び「日本通」なので、もっと活躍を続けてほしい人が多いかもしれない。