Category: Unknown Nichigo

豪政府の完全敗戦だったエミュー大戦争

Victorious Emu: 'We were not emused...'

オーストラリアが独立した1901年1月1日時点には、南アフリカにてボーア戦争に参戦し、現在に至るまでさまざまな戦争や紛争に戦い、決して「平和的」な国とは言い難い。20世紀に渡って第一次・第二次世界大戦をはじめ朝鮮戦争、マレーシア紛争、インドネシア戦争、ベトナム戦争に参戦した上、21世紀になったらアフガニスタンとイラク戦争にも参戦した。軍事力はそこそこ評価されるが、参戦した戦争の中ではオーストラリア軍がものすごく恥をかかされたのは特に一戦が目立つ。それは1932年のエミュー大戦争だった。おまけ、オーストラリア軍に対して戦勝した相手がエミュー、、、国家鳥だ。
 事態は今からちょうど79年さかのぼって世界恐慌下で起きた。戦場が西オーストラリア州マーチソン地区だった。いつもより熱かった夏によりオーストラリア国紋章にある国家鳥エミューの繁殖がさかんとなり、農産物を大量摂取することになった。すでに経済的に苦しんでいる農家を中心に事態に対して連邦政府(国)に対策を実施するようにプレッシャーをかけるようになった。
 オーストラリアでは政治的権力が今も昔もある農家を政治家が無視できない。選んだ対策はオーストラリア軍の動員だった。
 1932年11月上旬のある朝、王立豪州大砲部隊約50兵がG.メレディス大佐下でおよそ20万羽のエミューと戦う。部隊は、トラックに取り付けられた機関銃で国家鳥と向き合う。
 エミュー群は池で水を飲もうとしたところ軍が突然開戦し、機関銃で全開鳥に向かって打つ。
 しかし、エミュー群が広げて鳥があっちこっち走り回って、打たれた鳥の数はほんのわずかしかすぎなくて、ほとんどのエミューが見事に逃げた。
 同日午後、部隊が再び集合し、もう一回攻撃をしようとした。しかし、機関銃の音でまた鳥が走って逃げて、結果的に何万羽の鳥中、殺されたのが数羽しかなかった。
 豪軍部隊が撤退し、エミューが思う存分農産物を餌にし続けた。

A contemporary report of Australia's defeat in the 1932 Great Emu War.

 約1週間後、メレディス大佐がまた先頭に再び豪軍がエミュー群と向かって機関銃で乱射したが、また効果がほとんどなく、もう1回エミュー群のほとんどが逃げた。2回戦って約2万弾を使用した結果エミュー数百羽しか殺せなかった。
 「この鳥のように弾に対しての力があった部隊があれば世界中のどんな国の軍隊に対して争える。機関銃に対して戦車並みの力がある」とメレディス大佐が敗戦を認めた。
 これが起きている時、遠いキャンベラの国会ではエミュー大戦争に対して大騒ぎになった。国防相(当時)ゴードン・ピアス氏が豪軍敗戦を認めて、戦場から撤退の命令を下した。それに対してエミューの反応が未だに不明だが、以降数十年同地区では農家の大迷惑をかかったのは間違いない。
 敗戦後、農家が1948年まで3回も連邦政府のエミュー対策を要請したが1932年の敗戦を背景に毎回拒否し、エミューの完全勝利となった。
 

Aussies Exposed to Radiation in Japan – 65 Years Ago

Not long after the end of World War II, John Collins would sit and eat sandwiches at Ground Zero in Hiroshima, then sift through the rubble left from the city subjected to the world’s first nuclear attack for items he thought could become historically valuable.
戦後間もなく、ジョン・コリンズ氏は、広島市の原爆中心地に座ってサンドウィッチを食べてがれきの中に歴史的に価値のあるものを探し回ったことがあった。
Collins was then a 19-year-old sapper with the Australian troops making up the bulk of the British Commonwealth Occupation Forces (BCOF) stationed in Japan from February 1946 to April 1952.
当時、コリンズ氏は、1946年2月から1952年4月の間で英国連邦進駐軍(BCOF)の約9割で構成したオーストラリア軍の一人だった。19歳だった。

「ラスト豪先住民言語スピーカー」は日本人だった

国立国語研究所学者角田太作氏は、日豪関係に対して長年に渡ってとてもユニークな貢献をしてきている。

Tasaku Tsunoda

 同氏は、オーストラリア先住民であるウォロンゴ族が使っていたウォロンゴ語が話せる世界中で唯一の人である。幸いに、同氏は言語学者であり、ウォロンゴ語の辞書を作り、ウォロンゴ族の人々にその言葉を必死に教えようとしている。

 最近、オーストラリア全国及びアジア・太平洋地域に向けて放送しているラジオ局ラジオ・オーストラリアが角田氏をインタービューし、ウォロンゴ語の例も話し中に出ている。

 角田氏に脱帽します。

Japanese linguist helps revive an Aboriginal language (English)
角田氏のインタービュー(英語)

先住民がカカドゥ国立公園をさらに安全化

大、大、大好きの編集者である都築響一のフェースブック・ページから得た情報だが、オーストラリア北部ノーザン・テリトリーにあり、世界遺産であるカカドゥ国立公園内クーンガラ地区がが世界遺産指定エリアに入り永遠に守れるようになる。
 日本発信旅行ブログOnTimeによるとカカドゥは、ウランが大量にあり、オーストラリア経済に有力ある鉱業がどうしても掘り出したがっているが、先住民のジェフリー・リー氏がずーとクーンガラを守って行こうとした。
 詳しくはOnTimeへ(日本語)

日本語が大きく影響を与えた豪州言語

A memorial to Japanese luggers (pearl divers) in Broome, Western Australia

オーストラリアでは、数少ないながら日本人・日系人の影響が昔からあった。19世紀からでも、日本人を中心に西オーストラリア州のブルーム市では、多くの日本人が真珠取りに活躍したのがある程度知られているが、そこで生まれた言語の貢献についてはそれほど知られていないかもしれない。

Lest We Forget Japan’s Role in Creating the ANZAC legend

HMIJS Ibuki (left) and HMAS Melbourne escorting ANZAC troops to Gallipoli

ANZAC Day, April 25, has become an almost holy day on the Australian calendar in the early 21st century as the country celebrates the efforts and sacrifices of its military personnel since it first went to war as a nation at Gallipoli in 1915, but few remember Japan was an ally that played a vital role in creating the ANZAC legend.

 21世紀初期現在、ANZAC Day(4月25日)がオーストラリアでは、1915年に国として初めて戦争を体験したガリポリをはじめ復員兵などの努力や犠牲を称える聖なる日のような存在となっているが、そのANZAC伝説づくりに味方としての日本の大きな貢献がほとんど知られていないのだ。